原始・古代
大昔、川越一帯は市の南東部まで遠浅の海でした。縄文時代にはすでに人々が生活し、植物採取や狩猟・漁労などが行われ、弥生時代になると稲作が行われてムラが形成されました。市内では貝塚や古代の住居跡も見つかっています。
その後大陸からの文化が伝わり、農業の生産性も向上していきます。これにより階層が生まれ、古墳が築かれます。古墳時代を経て奈良時代・平安時代になると荘園が形つくられ、河越・仙波などの武蔵武士が支配する時代に移りました。この時代は入間川西岸地域は三芳野の里(豊かな美しい土地の意味)とも呼ばれ、伊勢物語などでも歌われています。
中世
平安時代から鎌倉時代にかけて武士の荘園支配が進みます。川越の名前の由来ともいわれている河越氏は鎌倉幕府の御家人として力を持っていき、河越太郎重頼の娘は源義経の正妻とまでなります。しかしながら源頼朝と義経の不和により悲しい結末を迎えました。その後河越一族は再び盛り返しますが、平一揆の乱で失敗し滅亡します。
後に現れた上杉持朝は川越一帯を治め、家臣の大田道真・道灌の父子に川越城を築かせます。初雁城とも呼ばれた美しい城は城下に町を広げながら発展していきます。その後、小田原氏・北条氏の支配下におかれますが、北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされました。
 
近世
天正18年(1590)関東への移ってきた徳川家康の支配に伴い、川越藩が置かれました。江戸幕府は川越を江戸の北の守りとして重要視し、有力な大名を配置しました。また大名のひとり松平信綱は城下町を整備し、舟運(しゅううん)を起こして江戸との物流を活発にさせます。この舟運は新河岸川から墨田川へと伸び、浅草に物資を運んだあと、帰りの便では川越に江戸の最新の文化を持ち帰ります。こうして商人の町としての川越は小江戸と呼ばれ幕末までにぎわいました。
近・現代
明治になっても川越は商業都市として繁栄しつづけます。穀物流通の中継地として、たんすや織物の生産地として発展しました。川越唐桟(とうざん)織は粋な織物として江戸で人気になりました。また、川越はまた幾度となく火事にあっています。明治26年(1893)の大火では町の3分の1を焼き、そのとき川越商人は耐久性を備えた蔵づくりに着目しました。今も残る蔵づくりの町並みはその時、財力を投資してつくられた土蔵造りの店舗の名残りです。
最近では、大正11年に埼玉県ではじめて市制を施工し、現在川越は首都圏近郊の中核都市として発展しています。
 
 
 
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