
大昔、川越一帯は市の南東部まで遠浅の海でした。縄文時代にはすでに人々が生活し、植物採取や狩猟・漁労などが行われ、弥生時代になると稲作が行われてムラが形成されました。市内では貝塚や古代の住居跡も見つかっています。
その後大陸からの文化が伝わり、農業の生産性も向上していきます。これにより階層が生まれ、古墳が築かれます。古墳時代を経て奈良時代・平安時代になると荘園が形つくられ、河越・仙波などの武蔵武士が支配する時代に移りました。この時代は入間川西岸地域は三芳野の里(豊かな美しい土地の意味)とも呼ばれ、伊勢物語などでも歌われています。 |

平安時代から鎌倉時代にかけて武士の荘園支配が進みます。川越の名前の由来ともいわれている河越氏は鎌倉幕府の御家人として力を持っていき、河越太郎重頼の娘は源義経の正妻とまでなります。しかしながら源頼朝と義経の不和により悲しい結末を迎えました。その後河越一族は再び盛り返しますが、平一揆の乱で失敗し滅亡します。
後に現れた上杉持朝は川越一帯を治め、家臣の大田道真・道灌の父子に川越城を築かせます。初雁城とも呼ばれた美しい城は城下に町を広げながら発展していきます。その後、小田原氏・北条氏の支配下におかれますが、北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされました。 |