上杉氏と後北条氏の争い
河越夜戦にまつわる尊い遺物
 

室町時代 それは戦国の世といわれる乱世の時代である。力を持つ守護大名や各地の戦国大名が領地を広げ、 やがては天下を取ろうと野心を抱いていた。こうした大名の中には、甲斐の武田信玄(たけだしんげん) 越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)駿河の今川義元(いまがわよしもと)尾張の織田信長(おだのぶなが)らがいた。
こうした情勢の中、武蔵野国では江戸・岩槻・河越の三城を拠点とする上杉氏が勢力を誇っていた。しかし、武蔵野国を手に入れようと機会をうかがっていた小田原の北条早雲(ほうじょうそううん)は、大永四年(1524)江戸城を攻め 翌五年(1525)岩槻城を攻略する。天文六年(1537)後北条氏は、数万の兵を率いて河越城を攻め ついに上杉氏は追放されてしまう。
天文十五年(1546)山内・扇谷両上杉氏は、八万の連合軍をつくり河越城奪回を期して城を包囲すると 後北条氏は城兵の生命と城の明け渡しを条件に和を請う態度を示し 上杉方を油断させたのである。北条氏康(うじやす)は今川との争いで駿河にいたが 八千の精鋭軍を率いて河越城の救援に駈け付け 戦意を緩めていた包囲軍へ奇襲攻撃を仕掛け 三千の城兵も城門を開いて斬って出たのである。夜中に不意をつかれた上杉連合軍は、激戦を交えるが敗退してしまう。
これが世に言う「河越夜戦」であり 後北条方の戦術によって小軍が大軍を破った戦である。この夜戦で、河越城主・上杉朝定、岩槻城主・大田資頼、武将・難波田弾正など上杉方の勇将が命を落とし、大田道灌の苦心の築城より約90年続いた上杉氏の河越城支配は終わりを告げ 後北条氏はここに武蔵国を完全に支配するに至ったのである。

戦乱の歴史を現代に
第二次世界大戦後、市内の旧家を取り壊した際に 凄まじい刀傷や弾痕(だんこん)が残されている兜鉢と数点の武具が発見された。これらの歴史的資料は、この地で繰り返された争乱の時代を 後世に伝えてくれる尊い遺物であり 川越の歴史を知る上でも極めて貴重な資料として展示している。

 
 

(くろうるしぬりきあぶみ)室町時代

鐙は乗馬の際に足を踏み掛けるもので騎馬戦闘では、足を防御する役割をした馬具。この木鐙は、枠は鉄製で踏込みは木板を張り合わせ 漆を塗り比較的軽量に仕上げてあり実戦的である。大地を駆けめぐり激しい馬上戦を展開したのであろう 足を乗せた踏込み部分の減り方がそれを物語っている。
 
 
(やり)室町時代
刃渡り33.6センチ・茎33.7センチ

室町時代になると集団戦に適した長柄武器である槍が戦場での主力となり、さまざまな形状の槍がうまれた。 展示の槍は、戦国時代を象徴する形をとどめている。
 
 
(かたな)室町時代
全長95.5センチ・反り4.8センチ

刀は平安時代以降に、それまで直刀だった刀身に反りが生じ 実用の道具として使いやすさが追求されてきた。 展示の刀身は、室町時代初期の作と思われる。
 
 
八間筋兜鉢八間筋兜鉢
(はっけんすじかぶとばち)室町時代

室町時代の作と思われる兜鉢は、刀や槍の叩きキズと側面には弾痕が残り 鉢全体の漆は欠落している。おそらく後の時代へも着用され 戦闘を重ねてきたものと思われる。川越が巻き込まれた大きな騒動や争いは、河越夜戦以降の近世にも勃発しており それらへの関連も考えられる貴重な遺物である。
 
 
 
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