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やきもの 土と火と釉の美
 
日本の焼き物の始まりは土器である。土器は人間の生活の知恵が生み出したものであった。縄文から弥生へと引き継がれ やがて土師器(はじき)へと続き その後、ロクロ・窯の技術がもたらされ須恵器(すえき)へ進歩し、やがて焼き物の表面に釉(ゆう:うわぐすり)が掛けられるようになり、全国各地で特徴のある焼き物が作られるようになった。焼き物とは、単なる容器としての必要性だけではなく 古代から土を使い ものを作るという日本人の知性・感性・造形感覚の素晴らしさと、土質・釉・色・模様・形など様々な美しさを表現している。
 
 


(すえき)奈良時代
酒器 高さ20センチ
愛らしさと気品を感じる美しさがある。

須恵器は、古墳時代中期頃に朝鮮半島からの渡来人によって技術が伝えられた。ここで始めて日本は窯とロクロを知り、それまで野焼きで作っていた焼き物とは全く違う物が出来るようになった。その特徴は、朝鮮の新羅焼(しんらやき)の系統をひいている。


・はそう・三筋壺・その他

 
 
古瀬戸
(こせと) 鎌倉時代
水注(みずさし) 高さ18センチ
釉が掛かり古典的な美しさに魅力を感じる。

鎌倉時代初期から室町末期までに、瀬戸の地域で作られた焼き物を言い 我が国で始めて本格的な陶器を作り出した。器全体に灰釉をかけるという技法も生まれ今までにない品質のよい焼き物となった。また、この時代には全国各地で続々と窯に煙があがり始めたと云う。


・四耳壺・小壺・その他
 
 
飯能焼
(はんのうやき)江戸時代末期
瓢箪文徳利(ひょうたんもんとっくり) 高さ25センチ
親しみを感じる素朴な美しさがある。

江戸時代末期から明治初期にかけての短い期間に、埼玉県飯能市で生産された陶器で 日用雑器として広く親しまれていた。また、独自の色合いと光沢・絵模様でも知られ その素朴な味わいが庶民の暮らしをしのばせてくれる。当時は陸路(川越飯能道)で川越へ運ばれ新河岸川の舟運を経て江戸に出荷されていた。 しかし、明治中期になると交通機関の発達に伴い他県から手頃な価格の陶磁器の流通が始まり 飯能焼は衰退の一途をたどり約50年間続いた窯の火は、ついに消えてしまった。現在では「まぼろしの陶器」と呼ばれ貴重なものとなっている。


・梅花文水柱・麦文小皿・植木鉢・大徳利・絵模様の器・その他
・最後の陶工「双木佐七」が飯能第一小学校へ寄贈した徳利
 
 
 
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