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忍術は、中国に源流があり日本に渡来して 修験道(しゅげんどう)や陰陽道(おんみょうどう)とまじわり、楠(くすのき)流忍法などが成立しやがて戦国期にいたって 伊賀・甲賀を中心とした独自の忍術が完成したと云われている。忍者(隠密)は、農民や商人として日頃の生活をし 家人や近隣の人にも自身の役目を明かす事なく、人知れず偵察役として主君に仕えていたと思われる。
戦国時代は、諸大名の動きや情勢を探り 敵が混乱するような情報を流すために隠密として全国に存在したが、密兵であるがために当時の資料が少ない。忍びの者とは、あくまでも影の存在であり 戦記などにもあまりその名を見ない。古くは「くさ・のきざる・ねずみ」など、呼び名も国々により様々であったと云う。
城下に残されていた忍具
武蔵国川越の地は、徳川幕府において関東防備の拠点とされていた歴史的背景と、城下から偶然にも発見された忍具などからも、城に仕えた忍びの存在を私達に教えてくれたのである。見つけ出された武器とともに実戦的な胴衣も出てきたが 書物などは残されていなかった。その様々な武器の特徴は、鉄を丹念に鍛えあげて形作り 敵に対する攻撃だけではなく最良の護身具としても その威力を発揮したように考えられる。これらの希少な忍具は、隠密として川越城に仕えた忍びの者へ 想いを馳せながらご覧頂きたい。
忍者(隠密)の存在は重要であった
忍者が実戦に参加した唯一の記録では、室町時代に北条氏が関東を制覇するまで 多くの戦いに忍者(隠密)を潜入させたとされ、風魔小太郎(ふうまこたろう)の名が[北条五代記]にある。伊賀の忍者・服部半蔵(はっとりはんぞう)は、天正十年(1582)の本能寺の変に際し、堺にいた徳川家康を混乱状勢の最中 無事に伊賀越えで三河に脱出させたという。また、当時は武蔵野国忍藩の城主であった松平伊豆守信綱も 島原の乱(寛永十四年)鎮圧に際し、鵜飼勘右衛門(うかいかんえもん)を筆頭に数名の甲賀忍者を一揆軍の原城内に潜入させ、敵情をさぐり 兵糧を盗み出させたとされている。
城対忍者
日本国中で忍者(隠密)を最も必要とした戦国時代では、戦機になるとその力を十分に発揮して敵の領内深く潜入しようとあらゆる手段を使ったという。城も忍者や敵の潜入を防止しようと堀や石垣の工夫、ヘイの忍び返しをはじめ潜入路にも通路仕掛けとして 縄を張りナルコや土鈴を下げておく方法など忍者に対するいくつもの防衛作をとった。しかし、それでも忍者は警備の目をくぐりぬけて領内・城内に潜入したと云う。
地名の由来
服部半蔵正成(1542〜1596) (はっとりはんぞう まさなり)
本能寺の変に際した功績から伊賀の忍者・服部半蔵は、徳川家康に江戸城西門警護の大役を命じられ、後に現在の地名「半蔵門」が名付けられた。 |
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「まきびし」の種類には天然びし(ヒシの実)・鉄びし(鉄製)がある。これは地面に置くと必ずトゲが上を向き 上を向かぬ物は「まきびし」ではない。また、持ち歩く際に軽量で物音がしない事から天然びしを携行することが、もっとも多かったと云われている。天然の木の実ではあるが、踏みつけるとトゲが刺さり激痛がはしるので 武器としての効果は大き い。皮袋や竹筒に入れて目立たぬようにして持ち歩き、敵の追撃から
逃れるときなどに地面に撒いたのである。屋敷の周りに撒いて置くと
外部からの侵入の妨げにもなった。(写真:天然びし) |
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・胴衣・多種多様な武器・その他 |
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