武蔵国に現れた武士たち
武蔵の豪族武士 河越太郎重頼
 
 
日枝神社奉納太刀拵
(ひえじんじゃほうのう ちょうふくりん たちごしらえ)平安時代末期

武蔵国で一大勢力を誇った河越氏の勇姿を感じさせ 地方豪族の武将らしい太刀拵である。河越荘の総鎮守である日枝神社(川越市上戸)に河越太郎重頼が奉納したと伝えられている。
 
 
平安時代中期頃、垣武平氏の流れをくむ秩父氏が根拠地・秩父盆地から里の地へ進出し、荘園という私有地(現在の川越市上戸)を築き 地方豪族として河越性を名乗り武蔵国で最も勢力を誇った。河越太郎重頼は源頼朝(よりとも)の挙兵時(1180年)にも平氏側についていたが、関東の武士をまとめたかった頼朝の説得により源氏側につき、木曽義仲追伐・平家討伐では多くの手柄を立てて頼朝に信頼され、後に重頼の娘は頼朝の弟・義経(よしつね)の正妻となった。しかし、頼朝と義経は仲たがいし重頼は頼朝に命を奪われ悲運の生涯をとげる。(重頼1185年没)そして嫁いだ娘も義経と共に自害し二十二歳の命を終えた。 ここで一時河越氏は衰退するものの、河越荘の所領はその子孫が代々継承し重頼の三男・重員の頃(1220年代)から再び有力武士としての立場を確立し繁栄する。しかし、応安元年(1368)平氏の流れをくむ河越氏を中心とした武士たちが、平一揆(へいいっき)と呼ばれる一団を結成して足利幕府に反旗を翻すが幕府軍に攻められ敗退し 多くは伊勢に逃れたと伝えられている。これ以降河越氏は歴史の表舞台から姿を消し、やがて武蔵野国は平一揆追討で手柄のあった上杉氏の支配が浸透し戦国争乱の時代を向えるのである。

武将「河越太郎重頼」の名は「かわごえ」という地名発祥の祖とも云われ、今も語り継がれている。現在の「川越」という文字になったのは、江戸時代に入ってからである。また、毎年10月に行われる川越まつりで姿を見せる29台の山車の中で、中原町の山車に「河越太郎重頼」の人形が花出し に現れます。ぜひ探してみてください。

河越太郎重頼の娘(源義経正妻)
古い家系図には女性の名前まで記されてない事が多いため 重頼の娘の名前は定かではないが、京へ嫁いだ姫「京姫」 と呼ばれことが多い。京姫は、義経の兄頼朝の計らいで十七歳のときに京都の義経のもとへ嫁いだが、頼朝・義経兄弟の 不和による悲劇の渦中に巻き込まれ、二十二歳の若さで世を去った姫である。義経といえば、愛妾「静御前」が有名であるが 頼朝による義経討伐から逃れるために、義経主従の一行と京都から奥州平泉まで逃避行をし 最期を共にしたのは他ならぬ 「京姫」である。衣川の館で義経と自刃する際、四歳になる京姫の娘も命を絶ったと云われる。一方「静御前」は義経のあとを 追って平泉を目指すも、下野国古河にて病に倒れたと云う。
 
 
河越氏と日枝神社
 
日枝神社河越荘の総鎮守 日枝神社(川越市上戸)
平安時代になると荘園を開発した地方豪族たちは、都への憧れと信仰心から各地で寺社を次々に築いたのである。平安時代末期頃に河越太郎重頼の父・能隆(よしたか)も河越荘園の総鎮守として日枝神社を京都より分祀して領内の上戸に奉りあげている。また、荘園跡に常楽寺(じょうらくじ)という時宗寺院もある。これは河越氏の持仏堂(じぶつどう)が発展したものと伝わる。

寺社への祈願と奉納
平安時代以降、武士団は出陣の際に団結と勝利を願い 厳粛な出陣式を棟梁(とうりょう:統率する指導者)の屋敷 で行った。棟梁は日頃から信仰している寺社に出向き勝利と武運を祈願し、その際に合戦を行う理由と大義名分が 自分にある事も述べ、勝利させてくれたあかつきには 刀剣や甲冑などを奉納(献上)したのである。
 
 
武蔵武士とは
 
平安時代から鎌倉時代にかけて、豪族や貴族たちは都を離れ地方の人々を配下に地方豪族となり、荘園という私有地を開発した。武蔵国では豪族武士たちを「武蔵武士」と呼び、河越氏は武蔵国において指揮権を持つほどの 勢力を誇ったのである。当時、武蔵七党と呼ばれた豪族武士七集団も存在し、丹・私市(きさい)・村山・西・児玉・横山・猪俣などが権力を振るった。
 
 
太刀
(たち)鎌倉時代初期
全長105センチ・反り3.2センチ

市内で発見された太刀は、800年余りの歳月を経ている姿を現代に残すものである。川越の地において武家政権の誕生を物語り、武蔵武士の資料として県内でも極めて貴重だとされている。

武士の登場
武士は、本来武芸を職能とする者で10世紀頃から確認されている。 貴族政権下において都や地方で反乱の 平定、盗賊の警固に当たっていたのである。その後12世紀中頃の平治の乱以降、源平双方の武士が参戦し 武力によって政争に決着が付けられ「武者の世」が到来するのである。
 
 
平氏方から源氏方へ
源頼朝隅田川旗上勢揃之図 江戸版画平治元年(1159)の平治の乱で源義朝(よしとも)が平清盛(きよもり)に敗れ、世の中は平氏の時代になった。ところが、治承四年(1180)八月 義朝の子・頼朝が平氏打倒を掲げて挙兵したため、各地の武士は再び平氏・源氏のいずれかに味方するか決断に追いやられた。 平治の乱以降、平氏に仕えてきた「河越太郎重頼」は、同族の武将・畠山重忠、江戸重長らと同年十月 頼朝に従うことを決意する。平氏から離れ、源氏に味方することを決めた理由は定かではないが、頼朝の強い説得と時代の流れを読んだという事であろう。多くの武士を味方につけた頼朝は、安房国から相模国へ赴き、源氏ゆかりの地、鎌倉へ入ったのである。

治承四年源頼朝隅田川旗上着到勢揃之図(江戸版画)
河越氏、畠山氏、江戸氏をはじめ武蔵武士団が源頼朝の旗上に参戦した様子である。
 
 
 
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